芦別市上芦別町の思い出~あかね町・草笛町界隈、今は無き芦別商業高校など

この記事では、筆者が幼少の頃を過ごした、北海道芦別市上芦別町の当時の風景を思い出してみます。

興味を示していただける人は、当地の出身者くらいでしょうが、一つ一つの証言が束になって、貴重な記録となり得ることを考え、思いつくままに記していきます。

記憶を頼りに手書きマップを

まず、記憶に残る昭和50年前後の草笛町界隈を地図にしてみました。

もちろん、道路の形状は、現在のGoogleマップを参照しましたが、実際に場所を地図に落としていこうとすると記憶はあいまいなもので、理髪店と松本商店の位置関係、あかしや食堂の場所、「さいわいでんし」の漢字は「幸電子」で良かっただろうか?などと迷うばかり。

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あかね町、草笛町は、住所には使われない町名?

当時、あかね町、草笛町、若葉町などと呼んでいた町名は、旧町名なのでしょうか。現在の住所では全て「上芦別町」となっていて、これらの町名は使われていないようですね。

もしかしたら、昭和50年頃でも、既に住所には使われていなかったかもしれません。

写真の背景は、あかね町の市営住宅です。昭和47年頃だと思います。市営住宅は水洗トイレでしたが浴室は付いていませんでした。近くには「あかね湯」という銭湯があり、多くの人が利用していました。

あかね遊園地

「あかね遊園地」と呼ばれている空き地がありました。「遊園地」なんて呼ばれていても、誰が見てもただの空き地でした。

ブランコくらいあったかもしれませんが、解体した建物の基礎が残っていたり、小さな子供が遊ぶには、現在の感覚では少々危ない環境でした。

廃タイヤがゴロゴロしていて、それですら貴重な遊び道具でした。

そこら中にベリーの一種「グズベリー」が自生していて、よく食べましたが、とても酸っぱかったです。

残飯屋さん

皆が「残飯屋さん」と呼んでいたのは、おそらく養豚業者のこと。荷台を牽引したトラクターが付近を通ると、各家庭ではボウルに入れた残飯などを、その荷台にザバーっと入れていくのです。

南部せんべい屋さん

南部せんべいに水あめを挟み、割りばしの取っ手を付けたものが、売り歩かれていました。町内にせんべい屋さんが来ると、子どもたちは小銭を握りしめて群がりました。

ハチミツ屋さん

このころ、ハチミツは、スーパーで買うものではなく、養蜂業者から一升瓶で購入するスタイルが定番でした。我が家にも夏になると、初老のおばちゃんが売りに来ていました。

芦別商業高校の思い出

昭和47年頃の芦別商業高校

トンボ捕り

平成に入り閉校した芦別商業高校の校舎は数年前に解体されてしまいました。

当時は、午後になると吹奏楽部の練習音が響いていました。

芦別商業高校には当時、池が2つあり、ここに大きなトンボ(ヤンマ)が集まってくるので、網を持ってよく出かけたものです。

怖いお姉さんたち

学校祭にも行きましたね。レストランでカレーライス(やけに白っぽかったけど)を食べたり、電気を使った実験室を見学したり、高校生って凄いな!と思ったものでした。

しかし、女子高生はちょっと怖かったです。当時の学園ドラマに出てくる、いわゆる「スケバン」っていうタイプのお姉さんが多かったのかもしれません。

草笛町の今井商店の前のバス停にたむろしている女子高生を遠巻きに避けて通った記憶があります。

あこがれの3階建てアパート

草笛町の向かいの「あかね町」に「3階建てアパート」がありました。

2階よりも高い建物は珍しかったので「3階建てアパート」と皆が呼んでいたのです。誰もがそのアパートをそう呼んでいました。

そこに友人の向井くんが住んでいました。家庭から出たごみは、廊下に設置されている「シューター」に投げ込むと、自動的に1階に集まる仕組みになっているのを見せてくれました。

3階建てって凄いな~。3階建てアパートは当時の少年の憧れでした。

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クワガタ捕りは山よりも木工場

クワガタを捕まえるには、山へ行って、樹液に集まっているところを捕まえるというのが定石のようですが、芦別では、木工場へ行くのがスタンダードでした。

使えなくなった材木が工場の端っこで朽ちており、クワガタたちは日中はそこで寝ているのです。

啓南公園の通称は“海賊船”

公園といえば、わたなべサイクル(わたなべ自転車)の前にある「啓南公園」。広い児童公園の目玉遊具が「海賊船」でした。公園の目の前のわたなべサイクルに展示してあるスーパーカーのような自転車が憧れでした。

小学校4年生のとき、ついにその自転車が手に入り、以来「チャリンコ暴走族」としてデコレーションにハマっていきました。

<Googleストリートビューより>

啓南公園の向かいには転校してきたばかりの絶世の美女、明子ちゃんが住んでいましたが、公園ではやんちゃなクソガキどもが暴れまわっているせいか、あまり姿を現しませんでした。

拾った100円玉を握りしめ、向かいの「今井商店」で麦菓子を買って食べたのが親にバレて怒られました。

上芦別小学校

当時、既に築80~90年前後が経っていたと思われるボロボロの木造校舎の上江別小学校に入学しました。

この航空写真の左側が上芦別小学校、右側が上芦別中学校です。

学校のすぐ左側には、「あゆみ共同幼児園」があり、筆者もここを卒園しました。

小学校の校舎はとても古く、暖房は石炭ストーブでした。石炭小屋から石炭を運ぶのは「石炭当番」ですが、小学生の体力ではとても重たかったのを覚えています。

筆者がお世話になった先生は、島崎先生、藤田先生、鈴木先生です。他の先生の名前は残念ながら覚えていません。

写真上の青い屋根は何の建物だったか覚えていませんが、敷地内にスモモかコリンゴの木があり、塀によじ登って採った記憶があります。

・・・・・・・・・・・

古写真を発掘したら、ここに記事の続きを書き足していきたいと思います。

■北海道芦別市上芦別町

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コメント

  1. よしだたかし より:

    わたしはS30年生まれ、上芦別には3~14歳までいました、懐かしいです、親が芦別商業の教師だったのでグラウンド横の公宅にすんでいて上芦別小学校~中学校~室蘭へひっこし昭和49年には大学で横浜に来ました。上中では野球部にいて3年になる前に引っ越したのでまったく昔の仲間とはそれからあったこともありません。
    小学校時代は人口も多く確か映画館もありましたね、グ-グルでみるとまったく変わってしまいなんか太陽光発電所が、、池は覚えてますよ冬はスケ-トリンクになりよく滑りに行きました。でも記憶があいまいで家~学校以外の場所は頭に浮かびません、覚えてるのはすごくきれいな星空!、小学校の時天文学者になると作文かいてましたね(笑)
    本当になつかしいな~

    • tah より:

      この度は、当ブログをご覧いただきありがとうございます。
      懐かしく読んでいただき、書いた甲斐がありました。

      筆者は、昭和44年4月~54年3月まで上芦別町で(町内で1度引っ越し)、前半はあかね町、後半は若葉町に住んでいました。
      実は、私の父も芦別商業の教員だったんですよ。よしださんとはちょうど入れ替わりでしょうかね。
      最初は市営住宅で、後半は、芦商専用ではなく、道立の教員住宅に住んでいました(47年頃建設)。

      たまに見ることがある「芦別物語」というサイトは、昭和30年代の芦別の写真などがたくさんありますので、きっと懐かしくご覧になれると思いますよ。

      芦別物語 http://tama.bona.jp/

      また、機会を見て芦別のことを書いてみようかと思います。
      この度は、コメントを入れていただき、大変ありがとうございました。

  2. よしだたかし より:

    お父様同じ芦別商業の先生だったんですね、うちの父はブラスバンドの顧問していて指揮者やってました、その影響うけ私も芦別駅まえの関口楽器店2Fでヤマハオルガン教室に通ってました。
    芦別物語みました懐かしいい!ライジョウには模型屋さんがあり自転車でよく行ってましたが、熊注意の山沿いの道で緊張して自転車こいでいた記憶があります・