戦時中に行われた中国人強制労働の負の歴史を描き続けた画家・志村墨然人(ぼくねんじん)さんが2017年9月23日札幌市内で亡くなられました。
<Youtubeより~2016年8月に札幌で行われた作品展にあたり講演された際の映像>
北海道の開拓事業には、道路や鉄道などの建設事業に、多数の囚人や「タコ」と呼ばれた土工夫(土木労働者)が過酷な強制労働に従事させられた歴史があります。
石北本線の「常紋トンネル」(1914年完成)の建設工事では、1970年(昭和45年)の改修工事の際に、トンネルの側壁の煉瓦の中から立ったままの人骨が発見され、周辺でも大量の人骨が発見されたことから、タコ部屋労働の象徴的な事件として、語られています。
スポンサーリンク
第二次世界大戦中、多くの男子は戦場に送られ、鉱山の採掘現場などでは深刻な労働力不足に陥っていました。
そこで、国は、その穴埋めとして、朝鮮や中国の人たちを「タコ部屋」に送り込んだのです。彼らは騙され、あるいは強制的に連行され、まともな食事も与えられないまま過酷な労働を強いられ多くの命が失われました。
戦局が厳しさを極めていた1945年(昭和20年)4月、北海道・積丹半島の西海岸に近い発足(はったり)村、現在の岩内郡共和町に鹿島組玉川事業所の中国人労働者用収容施設が設置されました。
この年の6月には、200人近い中国人が連れてこられ、軍需用に開かれた玉川鉱山(現在の泊村)で沈殿池の造成作業に従事させられました。
当時22歳だった志村さんは、この中国人労働者の収容寮で管理事務員として働いており、この後、あまりにも不条理な惨劇を目の当たりにすることになるのです。
まさに「タコ部屋」ともいうべき中国人労働者の現場では、労働者が死のうが生きようが知ったことではないという空気。傷病者は密閉状態の小屋に放置され見殺しにされました。
志村さんが、風呂が無いため皮膚病にかかった労働者に行水させようとしたところ「勝手なことするな」と上司にこっぴどく叱られたといいます。
まだ若かった志村さんは、上司の命令に従うしかなく、わずか2カ月の間に15人の死者を見送り、終戦を迎えました。
スポンサーリンク
それから50年の年月が流れ、先に妻を看取った志村さんは、贖罪の念が募り、72歳になって、記憶に刻まれた惨劇を絵に描き始めました。
札幌市在住の志村さんは、かつて収容所があった現共和町に50年ぶりに足を踏み入れました。水道も通っていない古寺を借り、絵を描き続けたのです。
志村さんが驚いたのは、共和町史にも旧発足村史にも中国人強制連行に関する記述が無かったことでした。
このことが、「この負の歴史を忘れてはならぬ」との思いをいっそう強くしたそうです。
当初は、「自責の念から描いていることだから」と公開するつもりは無かったそうですが、いつか必ず訪れるであろう死を意識しはじめたのか、85歳になった2009年5月に京都府京都市の龍谷大学で「墨描(すみがき)・中国人強制連行の図」展を開催しています。
2016年にはNHK札幌放送局制作の戦後特集番組でも紹介されました。
しかし、人の命は限りあるもの。自責と償いの思いを胸に絵を描き続けた画家・志村墨然人さんは、2017年9月23日札幌市内でご逝去されました。
現在、志村さんの作品は、秋田県のNPO花岡平和記念会が所蔵しているそうです。
【参考文献】毎日新聞からの転載記事
【参考文献】龍谷大学深草学舎田中宏研究室
スポンサーリンク